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平和記念資料館へ行く [いろんなことから考える]

平和記念資料館へ行こうと思う」の続き。

で、資料館。

やはりいろんなことを思った。

一番思ったのは、本当に本当に当たり前のことなんだけど、「この人たちは最初から原爆にあうなんて思ってたわけじゃない」ということ。
そして、誰も、自分たちがあんな地震や津波にあうとは思ってなかった。あんなひどい原発事故にあうなんて思ってなかった、ということ。

昔、井上光晴の『明日 一九四五年八月八日・長崎』を読んだ。
原爆投下前日の、ごく普通の長崎の暮らし。
読んだ時は、高校生だったと思う。実は、よくわからなかった。
私が生まれたのはもちろん戦後なので、もちろん、ひどい・悲しい・苦しいことだとは思っていたけれど、私にとって死んだ人たちは、誤解を恐れずに言えば、最初から死んでいた。実はそうじゃないはずなのに。

でも、いくら戦時下だといっても、その人たちは、もちろん最初からそんな形で死ぬ人として生まれてきたわけじゃない(と、思う!)。
「8時15分に止まった時計」は最初から「8時15分に止まった時計」として作られていたわけではなくて、それは、8時16分にも17分にも進むはずだった時計。
止まったままの、東北のとある観光案内のホームページ。それが、3月12日にも13日にも進むはずだったホームページなのと同様に。

何もかもが突然断ち切られる、ということ。
それから、生きていることが時に全くの<偶然>によって左右されていること。人をたすけられなかったこと。

後遺症。
今回、一番人だかりがしていたのは放射能に関する展示だった。



そしてもうひとつ、資料館に行って改めて思ったこと。
それは、地下にある入場無料の展示室は、どうしていつも人が少ないんだろうということ。

地下には、例えば「市民が描く原爆の絵」が展示されている。
上にもあるけど、数は地下のほうが多い気がする。
プロの絵描きでもない、普通の生き残った「悲しい」「苦しい」「たすけられなかった」「見殺しにした・申し訳ない」「自分は生きてしまった・恥ずかしい」という気持ちが一枚一枚の絵に込められていて、あれを見ると、しばしば熱を出してしまう。

それから、在韓被爆者や、南方特別留学生や、中国特別留学生などの被爆記録の展示がある。(だから、日本語教師は地下も見ないとダメだと思う)

更に今回気がついたのは、著名人の被爆体験。
漫才の喜味こいしさんの言葉もあって、詳細はうろ覚えだけど、
「原爆投下後しばらくは、申し訳なくて楽しめなかった」
というような表現を見て、ああ、そうだ、と思った。

以前は似たような言葉を聞くと、「そうかな」「そうかも」「でも、そうは言っても」とは思っていた。
だけど、3月11日以降、何度も何度もやってくる余震の中で、毛布をかぶって震えながら、確かに私たちは
「楽しむことが申し訳ない」
「笑うことが辛い」
という気持ちだった。
もちろんその気持ちは、実際に被災/被爆した人たちにははるかに及ばないものなのだけど。

人間って、素晴らしくもあれば、本当におろかしくもある。
いろんなことを考えながら見ていた。
涙ぐんでいる人もいた。
私も、涙が出た。



平和記念資料館へ行こうと思う [いろんなことから考える]

あんまりまとまりのない長文日記になると思う。このテーマ。

私はベタベタの広島人で、でも今は広島に住んでいない。
だけど家族はみんな広島だし、学校も高校までずっと広島だったし、日本語教育もスタートは広島だし、私の「母語」はニュースで話される日本語ではなく、広島弁だと思ってる。
(実際、疲れてくると広島弁以外はしゃべれんの)

なので、機会があれば帰る。
きちんと帰る。
で、ある程度まとまった時間いる時は、原爆資料館、つまり平和記念資料館に行くようにしてる。

この夏、広島に帰ることは最初からわかっていたので、当然資料館に行こう、行くんだろうとずっと思っていた。

そして、3月11日。

地震と津波、そして原発事故。
あの時は、たまたまハンガリーと日本を行き来していた。
ものすごい(としか言いようのない)痛ましさと、無力感と、無力感から来る情けなさと、それから春を迎えるヨーロッパのきらきらした眩しさ。
・・・は、今でもはっきり覚えている。

そして多分、これは海外にいる全てのヒロシマ・ナガサキの人間なら経験したこと。
3月11日以前、
「日本のどこから来たの? 東京大阪?」
と聞かれ、
「広島」
と言うと、例外なく相手は、うっ、とひるんだ。
中にはドイツで知り合ったイラク人とか、セルビアのタクシー運転手さんのように、自分たちの最近の経験を思い出して、
アメリカはひどい、アメリカは」
と、怒り始める人もいた。

それが3月11日以降、変わった。
確かに「うっ」という反応がないわけではないが、
「広島は大丈夫か。家族や友人は無事か」とか
「今、広島に帰って放射能は問題ないのか」
という質問に見事に変わった。
それから、相手の中に、今のこの状態で何をどう切り出したらいいのかわからない、という困惑を感じるようになった。

私の中でも、変わった。
チェルノブイリやスリーマイルのことは、やはり意識して見ていたつもりだったのに、知らないんだ、ということを思い知らされた。

最初はね、やっぱり、たくさんの広島の人が、自分たちなら福島のことを理解できるんじゃないか、という気持ちがあったんじゃないかと思う。
でも、だんだんわからなくなってきた。
知識がないんだ、ということを知った。
戦争と平時。原発と核爆発。熱線と、放射性物質が出続ける状況。戦争と、人間の生活のために必要と言われていたもの。同じ部分と違う部分。

そういうことを考えると、なんか、「ボランティアなら福島」とか、そういう発言は安易なんじゃないか、とだんだん後ろめたくなってきた。

その一方で、仮に今原爆が落とされたら、間違いなくヒロシマという街は「入ってはいけない」場所として認識されるはず。
生きているかもしれない親族を探しに行くことも、形見をひろうことも、できない。
育った場所が半径5キロ地点。
黒い雨が降ったと言われていて、ただ、その瞬間そこにいた人は、即死とかそういうことはなかったはずの場所。
だけど、仮に家が何とか残っていても、家族が無事でも、そこは「住めない地域」になる。
当時は放射能のことを知らなかったから(ああ、でも「ピカの毒」って言うよね)、皆入市して、被爆して、それでも復興させようと思ってそこに住んで、もう一回街をつくったわけよね。で、みんなそこで生まれて育ったわけよね。

などと考えると、だんだん混乱してくる。

考えているうちに、ヒロシマについて言われたことで、自分でもびっくりするほど腹が立ったり戸惑ったりしたことも思い出してくる。

いわく、 「広島の中心は復興させずに廃墟として残すべきだった」
        ↓
     みんな一生懸命自分たちの街を再建しようとしたんじゃないね。

いわく、 「原爆ドーム以外にももっと廃墟を残すべきだった」
        ↓
     そりゃそうかもしれんけど、悲しい苦しい気持ち、見たくないという気持ちはわからんのかなあ。
     何も、「べき」って言わんでも。

いわく、 「原爆ドームって街中にあるからびっくりした。もっと田舎の山の中にあるかと思った」
        ↓
     あのう。。。そんなところに新型爆弾落としてどうするん。

小学生 「あーっ、資料館、いい勉強になった」
        ↓
     成長途上とはわかっていながら、苛立ち。

東京で出会った署名「被爆二世のために」
        ↓
     純粋に衝撃、と混乱。


で、資料館。

行った。行こうと思った。
やっぱり、今行っとかんといけんのじゃないか、と思うので、行った。

行く前に、辺見庸の『もの食う人びと』の中の、「禁断の森」を読み返した。
原発事故から8年後のチェルノブイリの記録。
「マイクロシーベルト」とか、「セシウム」とか「半減期」とか、何度も読み返したはずなのに、今まで素通りしてしまっていた言葉を見た。

行ってからのことは、また次の日記で。



3年間の「現場から」 [活動]

帰国後すぐに、今年の「世界の日本語教育の現場から」がアップされました。

2011年 「世界の日本語教育の現場から -ハンガリー」
http://www.jpf.go.jp/j/japanese/dispatch/voice/touou/hungary/2011/report01.html

三年間をふりかえると、いろんなことがありました。
例えば中東欧研修。2009年は立ち上げで、まずは「お互いを知ろう」というコンセプトだったものが、三年目の2011年になるとぐっと研修としての性質を強めていました。
私は直接の担当ではありませんでしたが、初年度には初年度ならでは、三年目には三年目だからこそできることとと、ひとつの研修が時間をかけて育っていくのを傍でお手伝いすることができ、本当に印象深かったのを思い出します。
単発と思われがちな研修行事も、長期的なスパンで育てられるということを改めて感じたように思います。

それから自分の直接業務にしても、一年目は試行錯誤でアイデアのたたき直しをしたり、Can-do statementsを取り入れたりしていたのが、二年目は関係者総出で教材作成、そしてそれが三年目に完成に向かい、「よりよく使ってもらえるために」普及を視野に入れた活動にシフトしていっているのを感じます。

任期中に日本語能力試験の改訂もありました。
課題遂行という視点も入ってきました。
そんな中で、長期的に仕事に関わる経験ができたことを、三年分を読み返してみて感じます。

過去の報告はこちらです。

2009年: http://www.jpf.go.jp/j/japanese/dispatch/voice/touou/hungary/2009/report01.html
2010年: http://www.jpf.go.jp/j/japanese/dispatch/voice/touou/hungary/2010/report01.html




帰国後一カ月 [活動]

ハンガリーでの三年は、ひたすらひたすら走っていましたが、帰国してもう一カ月になります。

どうしてあんなに走っていたのだろうと考えると、そもそも私は年齢的にも働き盛りだし、初めての場所で初めての立場と仕事だったし、それから仕事と遊びのバランスをうまく住み分けられるほど器用な人間ではないからというのがあったのかなと思います。
もちろんせっかく外国にいるのだからその場所の文化や空気はしっかり吸収したいと思うけれど、「仕事はほどほど・生活エンジョイ」というやり方では自分が絶対後悔する・・・というのは、過去2回の海外業務を通じてよくわかっていたことです。

その背景には、「任期期限つき」ということもあったと思うんですね。
いつか終わるんだから、走らなきゃ損、というような。

それから専門業務に関わっていると、そもそも仕事とプライベートが切り離しにくいというか、仮にプライベートを楽しんでいても、頭の隅っこで仕事に結びつけて考えることに長年の日々の中で慣れてしまっていたというのもあります。
単身だからそれができたというわけでもなく、仮に家族持ちで家族と一緒に過ごしていたら、「うーん、子どもが好きなこの遊び、日本語教育だったらこういう形で活用できるかなあ」なんて思っていたはず。

とは言っても、こういう三年を送ると、終わってからどどっと疲れが出るだろうなというのは予想してましたが、案の定出ました。どどっと。

でも、時間はやはり経つもので、早いもので帰国して一カ月。

今までの一カ月は、「休む」「家族と過ごす」「病院に行く」「昔からの友達に会う」「足りない物を補充する」という毎日で、それに仕事が少し重なってきていたわけですが、これからは、「活動」、特に先に向かって動いていくような活動にシフトしていくんだろうな、と思っています。

それもいいかもしれないですよね。なんか、私の中で人生そのものが任期期限つきかなというか。
どういう場所にいて、どういう立場だとしても、健康でも健康じゃなくても、家族がいてもいなくても、向かうところが仕事であっても家族や知り合いや地域との関わりであっても、やっぱりその時の環境で一番必要だと思うものを探して活動していきたいなというか。

と言いつつ、美味しい日本ご飯(まずは味噌汁と納豆と漬物があれば満足)と、きちんと睡眠をとること重視で、日日平平凡凡にやっています。
あー、日本っていいなあ、やっぱり。






研修に参加する -「アニメ・マンガのオノマトペ」 [教師研修と、その周辺]

さて、関西に行っていた目的は、「人に会うため」というのがかなり大きなウエイトを占めていたのですが、もうひとつは研修に参加することにありました。
国際交流基金関西センターの「アニメ・マンガのオノマトペ」です。

ふだんの自分の位置は研修運営側で、もっぱら「自分がアレンジしたり、何かを提供したりする」立場。しかも海外にずっといると自分の中にあるものをどんどん放出していくような、まさに放電しっぱなし状態。
せっかくまとまった期間日本にいるのなら少し栄養補給をしたいというか、自分の中に何かを蓄積したいなと思っていました。

それに、「アニメ・マンガの日本語」サイトは以前からちょこちょこいじってはいましたが、開発者の方に直接お話を聞く機会はなく、一度聞いてみたいという気持ちもずっとありました。
自分自身がハンガリーで開発に関わっていただけに、やはり「作成者の視点」の大切さは痛感するところ。(三月にも機会はあったのですが、震災でしたからねえ。。。)

そして受けた研修の時も、2時間の間、「自分がこのサイトを研修で扱ったらどういう切り口にするかなあ」とずっと考えていたのですが、これは完全に職業病です。

ともかく、いろいろと考えるわけです。

オノマトペが試験対策とというよりも、「日本語の世界を豊かにできる」ものという視点であれば、<発見>とか<喜び>とか、そこがきっと外せない部分。
それを無視して、「上達する」とかいう部分を前面に出していくと、多分何かがウソになってしまう。
と同時に、様々なオノマトペの教材が、うまく授業で活用できていないとすれば何故なのか。教材のせいなのか、教師側に原因があるのか。意識のズレなのか、アクティビティの問題なのか、などなど。
頭の中でいろんな教材をつくってみたり、架空のクラスでデモンストレーションをしてみたり、自分の知っている先生たちをイメージしつつプログラムを組み立ててみたり、いろいろ考えながら受けた研修でした。ああ、確かに栄養もらった。

それにしてもすごいなと思うのは、学習者が持つ<力>。
教師側は「このWebをどうクラスで活用できるかわからない」と思ったり、だから研修を受けたりするわけですが、学習者は違うのですね。
彼らはアニメやマンガが純粋に好きでアクセスし、その中で自分でどんどん楽しんでいる可能性が高い・・・ うーん、こういうのってアクセス解析したらいろいろ見えてくるんでしょうね。

さて、そういうわけで。
いろいろ栄養をもらったので、今度は自分がそれをどう自分の中に落としていくかを考えたい。
そしてまた、私がまだ見えていないところや解釈をしまちがえている部分も多々あるはずなので、そこを気をつけていかねばならない。
ということを、考えています。うん、教師研修、やはり楽しみ。




関西にて、いろんな人に会う [活動]

週末は、二泊三日で関西へ行ってきました。

直接の目的は公開講座への参加だったのですが、何と言っても関西には知り合いたくさん。
それに、私の海外生活のスタートとなったドイツ行きも、実は関西の団体による派遣
緊張して受けた試験や、毎日が新鮮で楽しかった合宿研修など、思い出満載の懐かしい場所です。

なので、今回は研修以外は人と一緒に過ごす時間が多かったのですが、改めて思ったこと。

人に会うって、やはりいいですね。

以前も「海外の苦手」のところで書いたのですが、海外って、例えば自分は「仕事をする人」として到着した場合、やはりその一面を中心にして世界も人間関係も広がっていくので、開放されているようで意外と閉ざされた感じが抜けないとか、インプット量が少なくて、自分自身の存在がどんどん薄くなっていくような感覚があり、私は実はそれが非常に苦手だったりします。

・・・もちろん、海外でしかできない出会いや充足感はたくさんあって、それはそれで貴重なんですが。

今回は日本語教育関係者の方とお会いすることが多かったのですが、いろんな視点、いろんな立場、過去のこと、これからのこと、たわいない話など、たくさん笑ってたくさん飲んで、それから時に真面目な話もして、自分の「いろんな面」を取り戻せたような、少し自分自身がふくらんだような、充実した時間を過ごすことができました。
お会いした皆さん、ありがとうございました。

と同時に、また海外に出た時、私はどうやって自分を維持していこうかな、と、少しだけ真剣に考えてみたりもしました。

研修については、改めて。



昔の同僚たちに会う [いろんなことから考える]

帰国して1~2週間の間に、広島で昔働いていた学校でお世話になった先生方や、一緒に働いた友人たちにお会いする機会がいくつかありました。

なーつーかーしい!

3年経ったけど、するっと昔の自分に戻れる嬉しさ。
それから、なーんもできなかった頃の自分の、何も知らなかったからこその謙虚な気持ちを思い出せることの貴重さ。

もう何年もご一緒してないのに、地元にそういった原点と言える場所を持てる幸せを感じます。
(ハンガリーまで遊びに来てくださった先生も多く、それも感謝!)

日本語学校の予備教育
目的を失ってしまった学生や、子ども化した私費留学生の相手をするのが大変だという話題も出ましたが、私はそんなに嫌いな仕事ではなかったのです。

出口がはっきりしている場所で、どうすれば無味乾燥にならず、でも効果的にその出口に到達するかを試行錯誤したり、「大学入学してからの彼らの人生」を一緒に考えたり。
教えていたのもけして優秀な学生ばかりではないかもしれない。だけど、がんばって新しい自分を見つけたり、苦労して留学したからこそ人生を切り開いた卒業生も多かった・・・と、思っています。

願わくば、本当に留学したくてもできない状況の人たちにも何かを還元できるような、少なくともしようとするような人間に、みんなになっていてほしい、けど。

いつかまた、関わってみたい予備教育という現場です。



ハンガリー語のこと [語学学習]

語学学習は基本的に好きなのですが、まさに下手の横好きで、何とも中途半端なレベルの語学をいくつか抱えた状態です。
今回は三年住んだにも関わらず一向に上達せず、今まである程度まとまった期間勉強した言語の中で、習得度ダントツ最下位を誇るハンガリー語について。

上達しなかったかとはいえ、それでもゼロかというとそうではないわけですね。
三年たった今では例えばレストランなどで「えーっと、これは何の肉? 持ち帰りでいい? あ、箱代いくら?」ぐらいのやりとりは、ヨロヨロしながら何とか話せるようにはなっているので。
それと、『指さし会話帳』を手にとって眺めた時に、そこに出ているフレーズはだいたい意味がわかるし、単語も知っているものが多いのを感じます。やはりいつの間にか積み重なっていたんですね。

それなりの習得を支えてくれたのは、私の場合はやはり「学習の場」。
クラスレッスンは仕事の時間が合わなくてどうしても通えなかったのですが、プライベートレッスンで週1回。途中で先生との時間が合わなくてお休みした時期はあったものの、数えてみるとおそらく一年半は勉強したはずです。
仕事一色の毎日の中でちょっと学生気分に戻れる貴重な時間。語学面でも、ハンガリー語のような見たことも聞いたこともなかった文法を理解することや、英語語彙ともドイツ語語彙とも違う基本単語をコツコツ覚える練習は、先生がいなかったらやはり無理だったんじゃないかなと思います。
あとは、毎晩せっせと宿題をしてみたり、習ったフレーズを街で使ってみたり、『指さし会話帳』に出てくる語彙を覚えてみたり、特にLang-8で日記を書いたりという、地味な学習です。

それと、やはり人と話したいという気持ち。
仕事は日本語や英語でだいたい事足りてしまうのですが、気さくなお店の人たちや、地方都市にふらりと旅行に行った時など、やはりハンガリー語で話したい。あるいは話さないといけない。

懐かしいなあ。
時々お昼に出かけて行った、職場の近所のビュフェの店員さん。
親切な何でも屋さん。
夜、仕事で帰りが本当に遅くなって、それでもどうしても何かを食べたい時に駆け込んでいた、インド・カレーのお店。
同じアパートに住んでいた、猫をたくさん飼っているロシア人のおばさま。
数はそんなに多くなかったけれど、いつの間にか親しくなった何人かの人たち。
仕事が日本語と英語なだけに、私にとってのハンガリー語は「仕事と違う場所」を思い出させてくれる存在だったのかもしれないですね。

モデル・クラスで勉強していた14~5歳の仲良し女の子たちが、最後に会った時、
「先生、日本でもハンガリー語を勉強しますか」。

うん、するよ、もちろん、と答えて、でも、本当は自信ない部分もある。
だけど、あの人たちと話していたハンガリー語はやはり好きだったし、いつか、ハンガリー語というものともうちょっと付き合ってみたい・・・と思っているのは、ウソではないわけで。

ハンガリー人でも大人たちは、結構「ハンガリー語は勉強してもそんなに役に立たないから」と言ってくる。
だけど、彼女たちがキラキラした目で「ハンガリー語勉強しますか」と聞いてきたことは、やはり忘れないでおこう、と思っています。



帰ってきました [活動]

帰ってきて、早一週間。
最後に事務所を出る前に、ホワイトボードから自分の名前を消した瞬間、くらっと目まいがしそうになりました。

・・・思った以上に疲れていたようです。

翌日は、door to doorで24時間。
飛行機と飛行機とリムジンバスと飛行機とリムジンバスとタクシーを乗り継いで、やっとこさっとこ広島の実家にたどり着きました。

今のところ業務報告で一度国内出張した他は、自宅と近くのショッピングモールの往復に励みつつ、お店の窓から見える何の変哲もない街や山の景色に感動してみるという、全く地味な生活を送っています。
なんか、ドナウ近くのアパートから西駅近くのショッピングモールにせっせと通っては、何の変哲もない噴水で家族連れが遊ぶのを見ているのが幸せな時間という、非常に地味なハンガリー・ライフを思い出しました。

ブダペストでの仕事ももちろん思い出しますが、でもあそこはこれから新しい時代に入っていくわけで、いなくなった私はもういなくなった存在なのですね。
だから、これからは私にはなかった視点で新しいよいものをどんどんつくっていってもらいたいし、きっとそうなっていくんだろうなと思っています。

しばらくは片づけや報告書書きの他は、家族や地元の友人と過ごしたり、少し自分の勉強をしたりしてみたいと思っています。
そうそう、肩こり腰痛も何とかしなければ。

これからのことについては、また書きます。



勤務最終日 [活動]

日本に帰ってきて、早一週間が過ぎました。
三年と一週間にもわたるヨーロッパ時間の体内時計も、ようやっと極東時間に慣れてきたような気がします。

本当に偶然なのですが、勤務最終日の6月24日は私の誕生日
お昼休みの始まる前に、事務所メンバーがケーキと花束でプチ・パーティーを開いてくれました。
「何だかごそごそやってるな」と思っていたとはいえ、ケーキを見た瞬間、やっぱり涙が出そうになりました。ありがとう、皆さん。
離任に際してのカードには、今のスタッフからだけでなく、既に事務所を離れてハンガリーで・日本で・あるいは他の国で働いているもと同僚たちも、メッセージを寄せてくれていました。
知る人の誰もいない国で、初めての職場で、気がつくと三年、いろんな人たちと時間をともに過ごしてきたのですね。
本当に感謝です。

そして、その前の日は、日本語講座で修了パーティー。
普段は裏方で働くことが多いのですが、最後のパーティーということでいろんな受講生たちや先生と話し、お楽しみのビンゴ・ゲームも私自身がばっちり楽しんで、最後には受講生と先生たちがハッピーバースデイを歌ってくれました。
準備を手伝ってくれた方、企画してくれた方、どうもありがとう。
あー、本当にみんなと一緒に三年過ごせてよかった。

勤務最終日は偶然ブダペストのミュージアム・ナイト。
深夜から始まるイベントの準備で、ハンガリー人のスタッフも遅くまで出たり入ったり。
ふだんと少し違う雰囲気の中で、私の最後の出勤日は終了しました。
どうもありがとうございました。またいつかどこかで会えますよう。

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