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外からの視点 [いろんなことから考える]

ハンガリーで二年一緒に働いていた先輩同僚の、「ヨソから見たイギリス」という記事を読んで、おお、と思う。

http://www.jpf.go.jp/j/japanese/dispatch/voice/seiou/uk/2011/report02.html

先輩(と呼んだことはないけど)、あいかわらずの見事な節回し。いや、お懐かしい。

というだけじゃなくて、自分自身の見に置き換えて、考えるわけです。

ハンガリーからいきなり北京へ。
ヨーロッパから東アジアへ。
教師数50人の国から、15000人(!!!)の国へ。

私もうっかり書類に「居住国 ハンガリー」と書きそうになって慌てて消したり、ヨーロッパのことを口走りそうになって黙ったり。
はい、そうやってよっちらよっちらと、ヒヨコのように北京の中を歩いているわけだけれど、逆に今だから見える新鮮さもたくさんあるなあ、と思っています。

例えば、まず、街の中で。
これは北京限定で、この広い中国では当てはまらないところもたくさんあるはずだけど、とにかくロンドン同様、日本人が多い、日本が身近。(上海はもっと多いらしい、本当?)

日本並みの価格ではあるけれど、ユニクロも無印も普通にあるし、街の中心部にはセブンイレブンもたくさん。
かつて四川で奔走してどうしても見つけられなかった「ブラシ部分が小さくて奥歯の隅々まで磨ける歯ブラシ」が、割高とはいえ無造作にそのへんで入手できるのを見ると、何だかとても不思議だったりする。
あー、あれ、一時帰国の時にいつもまとめ買いしてたヤツだよね、と思ったりして。

セブンイレブンにも日本で売っていたのと同じお菓子が中国語の名前で売り出されていたり、中には日本語表記のままのものも。(ハンガリーにはドイツ語表記の化粧品がゴロゴロしていたけれど、そんな感じ?)
こんなに日本があっちこっちにある外国に住んだことがないので、とにかく不思議で新鮮です。
こういうところではCan-doそのまま使えそう。「表示が読めます」なんて。例えば、「イソフラボン」とか。

日本語教育のほうはまだまだ一カ月なので敢えて書きませんが、でも、日々新鮮・新鮮。
人と会うたび、話すたび、座ってまわりの様子を見ているだけで、ほほう、と思ったりする。

そうだなあ。こういう視点・発見って、確かに大切なものかも。
現地の人は無自覚かもしれないけれど、「これ、すごいよ」と思えたり、「あ、斬新だあ」とか、「同じことが他の国でもできるはずなのに、何でここはちゃんと軌道に乗ってるのかなあ」と考えたり。
そういう、現地の先生が当たり前に思っていて、でも傍から見れば珍しかったり「へえ」と感心するようなことを見出す視点をちゃんと忘れないでおきたいな、と思う。

東アジアと西欧・東欧という、比較的限られた地域とはいえ、私は明らかに「いろんなところ行ったり来たり」というパターンの人間に入っています。
私みたいなフラフラ組は、ひとつの地域にしっかり腰をすえて仕事に取り組んでいる先生には、絶対かなわない部分がある。
だけど、「外からの視点」は、逆に私みたいな立場だからこそ持てる強みじゃないか。(と、しっかり言える自分でいたいよね)

以前、「制限の中で何を行うか、ということ」という記事を書いて、「任期つきだからこそ制限の中で何ができるかを考える力を身につけたい」などということを書いたのですが、それに加え、外からの視点について考える北京一カ月目です。

私が書く理由 [いろんなことから考える]

8月25日に赴任し、早いものでもう一カ月が経ちました。

この間、週末が5回ありましたが、そのうち3回は家にこもって、何をしているかというとひたすら実践報告の原稿書き。
ハンガリーでの実践について書いていたのですが、そうしているとここがいったい北京なのか広島なのかハンガリーなのか、だんだんわからなくなってきます。
今の仮住まいにはちゃんとした机がなくて背中が痛くなるので、スターバックスこと星巴克珈琲(高いけどとにかく長居できる)に侵入して書いていると、これまたここがブダペスト西駅近くのカフェのような気がしてくる。
ちなみに、ハンガリーにスターバックスができたのは、私の滞在も後半になってのこと。つい最近です。
一方、北京の中心部はあっちもこっちもスタバだらけ。いやあ、バブルですねえ。個人的にはいつまでもお湯を足してくれる四川の茶館に行きたいのですが。

で、そこにパソコン持ち込んで、ひたすら仕事をしているわけです。

うわーん、遊びたいよう。
まだ、職場と家しか知らないよう。(それと書斎代わりのカフェ)
中国語だって、勉強したいよう。
なのに、締め切りは容赦なく迫ってくる。

さ、て、こんな思いをしてまで何故私はわざわざ書くのか。

考えてみれば、ハンガリー在任中の3年間、研修とは別に4回の場所でしょぼいながらも発表させていただき、論集にも書きました。
そのたびに週末を潰し、仕事が終わってから朝までパソコンに向かい、「ああ、何故私は外国に来てまでこんな思いをしているのだろう」と本気で後悔したりするのですが、その答えは自分の中にはある。実は、ある。
それは、一緒に働いていた先生たちのモヤモヤとか、苦労してきたこと、一緒に笑ったり泣いたりしたこと、それを何らかの形で記録として残したいということ。それから、そのことをもしかすると少しでも発想のヒントにしてもらえたり、励みにしてもらえるなら、こんな嬉しいことはないな、ということ。

はい、とってもえらそうです。
「記録に残す」はまだしも、「発想のヒントとしてもらったり、励みにしてもらったり」なんて、あんた、そんなご大層なことやっとったかいね(方言)て感じですもんね。

でも、なんて言いますか、語学教育って面白い反面、すごく消耗もするし、理不尽にぶつかることもあると思うんですよね。地位だって概して高くない・・・ところが多い。その中でみな、一生懸命やっているわけで。
そういう時に、まわりのモヤモヤをうまくひろって、つないで、形にして、書いて、かつできることならそれをちゃんと生かしたプロジェクトを実施して、次につなげていきたい。いけたらいいと思う。

ああ、えらそう。
だけど、本当にその気持ちでやっていきたいなあ。これからも、ずっと。

(それと、無事提出できたらちゃんと遊ぼう)

異文化とか、人を育てるとか [いろんなことから考える]

異文化理解とか相互理解とか、はたまた一般的能力とか「人を育てる」とか、そういうキーワードを出すたびにぶつかる問題がいくつかあります。
えっと、以下は中国に限らず、他の国でも聞こえてきたことで。

・時間がない。

授業時間の中で、教えなければいけない項目が多すぎて、そこまで構っていられない。
「文化体験」は課外活動で扱うが、その時はみんな帰省してしまっている。
そもそもカリキュラムの中に組み込まれていない。

・理解が得られない。

文化体験をたくさん取り入れていると遊んでいると思われて、学校の中で日本語が軽んじられるようになる。(せ、切実です)

・「人を育てる」というようなことにまで、言語教育が口を出していいのか

・・・私が学生だったら、きっとそう思っていたはず。(生意気)



まずは、「時間がないなら、一見地味な文型練習や聴解にも、異文化を考えるしかけを入れちゃおう」というのはずっと考えていたことで、ハンガリーの頃からいじっていました。
最後の研修で、「写真使い方」や「聴解練習」とからめて発表の機会をいただけたこと、今でもとても感謝しています。

それから、「人を育てる」ことと言語教育。
これは、中等教育になじむ概念かなと思っていたけれど、もしかすると大学でも十分意識展開できることかもしれない。
例えば、自分が外国語学部の学生だった時、法学部や経済学部の友人たちに比べて、自分のやっていることが何だかとても浅いような、そんな印象を持つことがありました。
卒業する時、真面目に英語学科で勉強していた友人が、「楽しかったけど、もう一度大学に入るなら法学部とかに入って、語学は自分で勉強する形でもいいかなあ」と言っていたのも覚えています。

外国語専攻だったら、どうしても「言語技能」に時間をとられてしまう。
それはとても大切だけれど、「深いものが何も身についていない」という気持ちになってしまったら、やはり惜しいんですよね。

で、今はそれを具体的にどうしていくかを、またぼちぼちいじっているわけですが、こういう問題をずっと考えていると、ともすれば忘れそうになるのが、

・「異文化理解能力」などを取り上げるのは、そもそも本当に必要なことなのか

という、大前提のところ。


いや、もちろん必要だと思ってるんです。
でもね、いじっているとだんだん楽しくなってきて、「だって、異文化楽しいじゃーん」という、よくわからないところに落ちていきかねない。

そこは課題です。





目標記述 [活動]

大学日本語を教えている先生たち対象の訪日研修。その壮行会に参加してきました。

「日本で何をしたいか」(えっと、遊びじゃなくて教授法などです)
ブレーンストーミングの後、記述の時間が設けられました。

中国に来たばかりの私なので、自分自身も頭の中でぐるぐる。中国で何がしたい? ここで何ができそう? 例えば、これからの二年間で。

 ・現地で必要なことをまず見つけたい

 ・それを形にしたい

 ・最近は異文化理解や「実存的能力」に関心があるので、それを東アジアという環境で可能ならば追求したい。日本語力の向上も重要な場所なので、それと「人を豊かにすること」ことがからめうるのか、からめうるとすればどういう形でか。



うーん、バッテンつけられそうな記述ですね。曖昧、と言われて。

でも、と思うのです。

言いわけじゃないけど、来たばかりの場所で、もちろん漠然と希望や期待やイメージはあるけれど、でも、それで詳述して果たしていいのか。詳述はできるかもしれないが、何だかとてもおこがましい。

例えば、論文準備に行くような場合、「コレコレのデータをとる」とか、「あの先生の指導を受ける」とか、「あそこへ行って文献探す」とか、いろんな具体的な目標があるべきです。
あ、あと私たちの派遣前研修も、「カレコレの知識を入れる」とか「同期のネットワークをつくる(つまりは飲み会)」とか「ブリーフィングを受けとく」とか、具体的目標は当然あるでしょう。

だけど、今回のように非常に大きな枠でとらえた教師研修の場合は、もうちょっとゆるやかにとらえていく必要があるのではないか。

目標を書く。でも、それは、けして固定したものではないという、<はっきりとした>認識。
目標を書く。それは、書かれた目標そのものの素晴らしさではなく、考えるきっかけとなるものとして。
目標を書く。でも、書けない。あるいは、詳述できない。さて、なぜ書けないか。そこから始まる問いのようなもの。

目標というのは、きっといくつかのケースがある。ひとつには、効率を求める場合。それから、非常に長いスパンでの変化やふりかえりの仕掛けの場合。
無意識に私たちは使い分けているわけだけど、そこは意識化しておかないと、何だか変なことになりかねない。
例えば、ゆったり構えたほうがいい場面ですら、「もっと合理的に書きましょう」となったり、逆に効率を求めなければいけない場面で、「目標よりプロセスを大切に」となってしまったり。

さて、ここで再び自分の例をふりかえる。
私は今、中国でのこれからについて詳述できない。意図的に詳述を避けている部分もある。
実は今の立場としては二度目の派遣なので、「今はまだ焦るまい」とか「意識的に全体をみる時間にしよう」「まずはきちんとなぞってみよう」と、積極的に思っている自分を感じる。
曖昧にしか書けない自分も、「そりゃそうだもん」と、わりとおおらかにとらえられる。それは、その次に来る<何か>が、きっと、もうすぐ、出てくる(おお、えらそう)という確信があるからだと思う。

でも、以前はどうだったかな。
「まだなぞる仕事しかできない」ことに焦りがあったり、「何かしなきゃ」と思ってバタバタ変な動きをしたり。もしかするとそうだったかもしれない。
そういう時には、どういう目標設定ができるかという発想のヒントやなぞるべき型、気持ちを落ち着ける方法を、小さくて具体的なヒント/目標としてひとつでも挙げられたら、ずいぶんラクになるんじゃないか。
つまりそれは、効果的な目標設定は場面やタイミングといったことだけによるものではない。その人の状況とか性質とか、「個人」にも大きく関わっているというわけで。

そんなことを、頭の中で目標記述しながら考えていました。


ーーーーー

この時の先生たち、台風ど真ん中の東京に降り立ち(そして夜には地震・・・)、皆さん元気に過ごしていらっしゃるよう。

たまたま近くのテーブルにいたのは、「初めて日本に行く」という若い先生。「なんでも見たい、なんでも知りたい」とキラキラしていて、こういう先生に会うと、行く前の意識化に加え、終わってから考え続けられるような環境づくりも忘れないようにしよう、と思ったりします。




推測する力などなど [教室から]

以前、「アニメ・マンガのオノマトペ」の記事にも書いたのですが、最近ずっと気になっているのは「学習者の力をどう信じるか」ということと、更にはそれをどう教授法の中に落としていけるかということです。
信じるからといって、それは丸投げではないと思っているわけなので。

で、最近思うところの多い課題遂行。

私がドイツ語の試験を受けた時、聴解試験の中にやたら不明瞭なものや方言が混じっているものがあって、「スイス・ドイツ語も聞き取れなきゃいけないのか」と最初は身構えたものの、実際に練習してみると意外に楽しかったし、抵抗がなかったのを覚えています。


(1)方言も学習しなければならないのかと身構えた。
  ↓
(2)CEFRの中のバリエーションかと後で思う。
  ↓
(3)でもそれはバリエーションを「学習する」ことだけではない。そしてまた、試験という場で、「現実に近い状況に無理やり追い込まれる」ことでもない。
バリエーションがあっても楽しむ力、あきらめない何か、推測しようとする自分自身につながっていたのではないかな、と後から思うようになった。うーん、考えすぎかな。


最後の部分、CEFRの根本的な概念のひとつですね。

たくさんの人と人が会う、いろいろな人がいる。
そこであきらめないで、交渉しようとする力、理解したり考えようとしたりする力。
出てきたものは、「方言を勉強しよう」と一見同じような形になってしまうかもしれない。
でも、実はそこに込められた別のものがある。

最近は敢えて地味な雰囲気の授業スタイルをとることに、けっこう興味があります。
地味な中にも理念というか、芯の部分を感じさせるような授業、クラス運営
で、その中に、学習者がどう考える力をつけていくかを、ちょこっとずつしかけていく。たとえば、冒頭のような聴解CDの仕掛け方だってそうですよね。

彼らは気がつくかもしれない。気がつかないかもしれない。あるいはずっと後になって初めて気がつくかもしれない。
気づいた学習者は楽しんでくれるかもしれないし、逆に中には、語学教育にそのような人間性や倫理観のようなものにまで立ち入られることに抵抗を感じる学習者もいるかもしれない。
(私は逆に後者のように反発する学習者も好きかも。いろんなことがそこから豊かに始まりそうなので)

一見普通の授業をしているようで、実は教師がファシリテーターとしても機能している。
現場からしばし離れた北京にいて、そういうことも模索してみたいと思っています。




歌の力を考える [いろんなことから考える]

NHKののど自慢が東北で開かれ、そこで千昌夫が「北国の春」を歌ったと知り、涙が出てしまった。うーむ。
北国の美しさと、「あの故郷へ帰ろかな」という、あの歌ですね。

中国ではよく知られて愛されているけれど(いまどきの大学生すら好きだと言っていた!)、日本では、まあ、古い演歌ですね。でも、その話を聞いて涙が出てしまいました。

よく「音楽の力」とか聞くけれど、あまり信じてなかったのです。
私だってもちろん好きな歌はあるし、思い出を喚起するものとか、しみじみするものとか、そういうのはあるけれど、「心にしみるあの名曲」なんて聞くと、胡散臭い~と思ってしまうのです。キャッチコピーっぽすぎて。

でも、個人単位じゃなくて、日本という国が、「帰る故郷」と賛美できなくなってしまった。
ハンガリーから帰る時、「日本に今帰る」ということに対してずいぶん不安がられたり、心配されたりもしたんですよね。
西日本出身の私だって、「日本に帰るんだよー」「いいとこなんだよー」と呑気に言えなくなってしまった。
外国にいたからこそ、日本という場所を、「かたまり」としての故郷と見ていたようにも思います。

二か月日本にいて、震災に関して本当に何もできなかったな、と思っています。
レジで募金箱を見るたびに募金したり(チップの国に長くいると、こういうことがさらっとできるようになる)、ネット募金は海外からでもできるのでそれをしたり。
それは続けようと思っているけど、やはり無力感というか、何と言うか。

そんな時、被災地の人が集まって、誰もが知っている歌を聞いて、一緒に歌って、絶対他の人にはわからない、それぞれの気持ちを抱く。「帰ろかな」と言って、でも絶対に帰れなくなってしまった場所と時間。そして、その場所の美しさを思い出す。
歌の力、みたいなものってやはりあるんだ、と思いたくなりました。

芸術ってちっぽけだ、とは私はいつも思うようにしているのですが(芸術が好きだからこそ)、そのちっぽけさにしかできない何かを、芸術にはやはり真摯に求めていってほしいなと。



中国語の通信教育 [語学学習]

実はこの春から、つまりハンガリーにまだいた頃から、中国語通信教育を始めていました(ハンガリー語の先生、すみません)。
北京に行くことはもう決まっていて、中国語の勉強は再開したい。
でもハンガリーでの時間をあまり拘束されることなく勉強するにはどうしたらいいかなあ、と考えたのが、通信教育にした理由でした。

あ、あと、e-learningに興味があったというのもありますね。

メールによる作文添削。
3級はだいたい取得した、初級後半から初中級レベルが対象。
勉強してみて、やっぱりよかったな、と思います。

もちろん自分の中国語はまだまだだという自覚はあったけれど、語彙が足りないのかなあとか、何となくその程度にしか思っていなかったわけです。
でもあらためて作文(翻訳)をやってみて、独学の中で、語彙だけじゃなく基本的な語順や用法がわかっていなかったこととか、サバイバル以上の表現ができないことなど発見。
そういえば検定試験を受けた時も、実は私、文法の点がわりと低かったんですね。

今のところ作文課題に追われているけど、送られてきた添削はまた見返して勉強したいな。と、思っています。
さて、終了まであと二回。




高いところが好き [日常]

北京に来て、二週目終了。
ちょうど中秋節の三連休なので、すこーし自分を取り戻す時間にしたいと思っています。

今のところ、とても元気。
今回はゼロからの家探しだったので心配もありましたが、いろんな家を見るのは楽しい。わくわく。
そして、晴れて家探し二日目にして住居決定。契約も済ませ、近々入居予定です。

ブダペストの家もわりと気に入ってたんだけど、実はひとつだけ不満が。中庭のある家がよかったなあと。 ←わがまま
今回は間取りだけじゃなく、建物全体の雰囲気が気に入ったので楽しみです。

今はウィークリーマンションで仮住まい。
20階。

高いところに住むのは初めてですが、なかなかいいですね。
なにしろ、空が近い。
向かいに何もないので、視界が広い。カーテンもあけっぱなしにできて、解放感あり。
夜、街のビルの明かりとか、眼下の道を人がたくさん歩いている様子が見えて、広々して、気持ちがいい。
朝起きて最初に見えるのが何もない空、というのもとても嬉しい。(青空だったらもっと嬉しいけど、よしとしよう)

・・・まあ、地震が(多分)少ないというのも、高いところに安心して住める理由ですよね。

新居ではどんな生活か。今から楽しみです。



教育政策って [いろんなことから考える]

そういえば、教育史や教育政策というものをちょっと本気で突き詰めようかなと思っていた、10数年前。
政治学の専門の先生に、
「教育政策は政治の下位分野なので、そんなものを研究対象とするのはやめるべき」
と言われて、「うーん・・・」と思ったことがあります。
(で、離れた)

どうしてそのことを思い出すか。
日本語教育の中で、私たちは言語政策・教育政策を意識していく場所にいて、最近では「それはとても大切」という声もよく聞かれる時代にいます。
でもその視点を、日本語教育からスタートした私たちが、「最先端のことをやってるんだ」と気軽に思ってしまうと、足元すくわれるんじゃないかなと。




Google Analyticsに触れる [活動]

職場でGoogle Analyticsの説明を受ける機会がありました(実はまだ入門編らしい)。

ブログの簡単なアクセス解析を見ることはあったけれど、専門の方の説明を聞きながら、丁寧にソフトを見るのは実は初めて。

各項目はどういうことを意味しているのかとか、項目の平均的な数値とか、数字の読みとり方とか、自己判断とはズレているものもありました。やはり、勉強してみるものですね。

有意義な情報は発信していきたいし、人と人が会うきっかけにもしたい。
求められているコンテンツを提供し、かつ、わかりやすくスッキリしたサイトもデザインしたい。
実は果てしなく機械音痴なのですが、やりたいことや必要だと思うことは、やっぱりやっていきたい。

さて、何ができるかなあ。

日本語教育視点のアクセス解析については、以下の記事もお勧めです。

・日本語でケアナビの「いま」 アクセス解析講座
1: アクセスログって?  http://nihongodecarenavi.net/blog/ima/access01.html
2: ページビューって?  http://nihongodecarenavi.net/blog/ima/access02.html
3: 国別比較  http://nihongodecarenavi.net/blog/ima/access03.html
4: ご新規さんとリピーター  http://nihongodecarenavi.net/blog/ima/access04.html
5: どこから来ましたか?  http://nihongodecarenavi.net/blog/ima/access05.html



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