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もともとの専門と日本語教育学ということ [いろんなことから考える]

最近でこそ学部から、あるいは20代前半から日本語教育を専攻してきたという若い先生が増えてきましたが、40代以上はやはり、もともとは別の専門(外国語とか言語学とか文学とか教育とか社会学や歴史とか、中には数学とか)を持っていたというのが一般的です。
で、前の専門をそれなりに長くやっていたり、それなりにこだわりを持っていたりすればするほど、日本語教育との方法論の違いとか、妙に平易に見えてしまう実践報告の論文に違和感というか、抵抗を持ってしまうんじゃないかなと思うわけです。

そして、陥りがちなのは、「●●学に比べて実践寄りの日本語教育学論文は、安易に書ける」と思ってしまったり、「安易でいいんだ」と決めてしまうことなのですね。
いや、本当にありますよ、こういうこと。本当に!
あるいは逆に、難易度の高そうなものを日本語教育学で書こうとして、自爆してしまうとか。

確かに、日本語教育学の学際性は指摘されるところ。
にも関わらず関係者が方法論に対して持つ体力のようなものの弱さから、近接分野で相手にされにくい、という指摘を聞くこともあります。
じゃ、現場の実践中心の先生にとって本当に日本語教育学の論文が読みやすいか、と言われると、既にけしてそうではないのですね。
私も歴史から日本語教育に移り、「現場どっぷりでいこう」と思った時期、現場の自分にとって実践研修の論文は既にそれなりに敷居が高く、かつ歴史論文に比べてはるかに読みにくく、「いったいこの人たちは何を拠り所にこれを書こうとしているんだろう」ということに、ずっとずっとずっとずっとひっかかっていました。

見えにくいまま、懲りずに日本語教育学会にも籍を置き続け、改めて勉強したいと思っても、「今日本語教育学をやっても、結局自爆系の成果しか出せないだろうな」という認識はあり、そんな中でずっとやってきていた中、最近ちょっと整理できたことがあります。

日本語教育学。
うん。それはですね、やはり、ただの「教室や語学という実践を借りた●●学」だけであってはいけない、のじゃないか、と思うこと。
「平易な●●学」でも、「実践重視の●●学」だけであってもいけない、と思うことと同様に。
本当に、ごくごく当たり前のようですが、そう思います。

それが分野によって違うかもしれないけど、例えば同じ、「ある社会のある時代のある教育機関の今となっては非常にアレレなカリキュラムやコースデザイン」を見るとしても、歴史だと、そのアレレな部分を時代の中で、あるいは次につながるものとして、プラスにせよマイナスにせよ意義づけていく視点なんですよね。
だけど、日本語教育だったらそうはいかない。「今の時代の今の教育機関のカリキュラムやコースデザイン」を私が分析したり整理したり実践したりしていくならば、それは間違っても今の時代の中でアレレなものを肯定する形になってはいけないんじゃないか、と。
もちろん、結果的にアレレな実践になることはあるだろうし、そこから生まれるものはきっちり次につなげていかなければいけないのですが、「これだって意義があったもん」と、最初から思ってはいけない、と思うのです。それは、もう少し後の時代の仕事になるはず。えーと、歴史から入ってこられた方、どうでしょうか??

それを自分が感じたのは実はつい最近のことです。
その時自分の中ですっと落ちるものがあったし、「あ、今なら日本語教育学を本当に勉強できる」と思えるようにもなりました。10年以上、かかりましたね(結構しぶとい)。

今回いろいろ考えられたのは、中国という、「教育学」や「言語教育学」がこれから地位を高めようとする場所の力、かつ、今の発展の中、新しい理念を吸収し上にのぼっていこうという凄まじいパワーを感じさせる場所の力のおかげです。
ここでは、日本語教育学に取り組もうという、もともとは文法や古典文学を勉強していた先生方に会う機会が多く、既に抜きん出た方もいらっしゃれば、まだまだこれからとい若手も少なくない状態です。
そして、そこにはいろんな葛藤があると思うのです。

平易な●●学じゃない。
実践の場を借りただけの●●学じゃない。
そして、●●学に対してコンプレックスを持つ必要も、ない。

それを納得できる形までつかんでいくのには多分すごく自分がかかる。
でも、本当にやっていきたいと思う人がいるならば、それを一緒に考えていけるぐらいの力を自分がつけるか、あるいはそのための場をつくれるような仕事をしていきたいと思っています。

(ついでに言えば、研究と教育を切り離して、仕方なくやっている授業活動を何とか楽しくやり過ごすために日本語教育を必要としている人も絶対にいて、ここは実はもっと深刻なんじゃないかなあと思ったりします)

<接触>と<切実性>と<個>と<上達+それ以外>と [いろんなことから考える]

ここへ来てから、ずっと自分の中でいじっていることがある。
例えば、<接触>とか。
私はハンガリーを経てここに来たけど、ハンガリーという小さい国のあの学習者たちは、日系企業への就職などという実利的な機会をそんなに持っているわけではないのに、どうしてあんなに日本を身近に感じ、どうして日本と豊かにつながっていたんだろう。
それから、中国の学習者たちは、こんなに日本に近い場所にいて、そして実際に日系企業に就職する学生たちだって多いのに、どうして日本を遠い場所と感じ、日本とのつながりを身近に感じていないのだろう?

それから、言語を使うことの<切実さ>。
語学学習の中での、コミュニケーションや現実場面、真正性といった問題。
それと、「学習者の中から出てくる、何かを表現したい」ということとのつながり。
(母語でもそういう経験をしてきているかどうかも関連あるかもしれない)

もうひとつ、<個>。
豊かな協働を支えるものとしての、確立したものとした<個>。
これは、自分の中でもやや曖昧。どうアプローチしていこう。

あとは、やっぱり何だかんだ言って、誠実に<上達>ということと関わっていくこと。
と同時に、<上達>以外の教育が持っている大切な面を、忘れないということ。
もうひとつ、うまく言えないけど、無意味な上達の強要をせず、「今できない」という事実に大切に関わるということ。
そしてまた、「今できない」ことを認めながらも、その人の能力や可能性を「あなたはこの程度」と断じるのではなく、ちゃんと可能性へつながる道を残しておきたいということ。


いろいろずっと、自分の中で考えます。

数年前からずっと考えていることだけれど、やっぱり場所が変わって新しい人たちに触れたことで、少し視点が変わったことも多い。
動く日本語教師であることが、自分の中にちゃんと積み重なっていけばいいのだけれど。じゃなくて、積み重ねる気持ちでいたいよね、と思ったりします。

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