So-net無料ブログ作成
検索選択

学校教育における日本語教育 [あちこちの日本語教育]

海外で日本語教育に携わっていると、他国の「学校教育」における日本語教育に関わることも多い。

その中で、いろいろ悩んで、困って、ぶつかって、読むようになったのが教育学の本。
教育学の分野から、評価や教師研修や授業研究や教育心理学に関するものを読むようになり、それから発展して日本の学校の中での英語教育の本を読むようになった。

教育学の本を読んでいた時も、英語教育の本を読んでいる今も、刺激をたくさん受けている。読んでいて、面白いなあ、と思う。
面白いなあ、と思うとともに、まいったなあ、とも思ったりする。

それは、「教育」という視点が地に足がついていること、層の厚さを感じること。
更には、「教育」という問題を情にひっぱられすぎることなく、冷静にとらえようという視点。
ひとつの理論を応用するときの慎重さ…などなど。たまたま、私が質のよいものに立て続けに出逢ったからかもしれないけれど。

すごく単純な例をひとつ。
今手にとっている英語の本は、はっきりと「英語教育」と「英語科教育」を分けている。分けた上で、自分たちはこの本の中では「英語科教育」、即ち学校における英語教育について論じると主張する。
当たり前のことなんだけれど、前提が非常にクリアになり、そのため論理の展開も明晰だ。拠って立つところがはっきりしている。これって…意外と、できてないこともある。

「海外の日本語教育」、とひとまとめにするけれど、その国の学校教育の中での日本語、という視点はどうなのだろう。
いや、もちろん、どの国にも、そこには教育に関する考えや文献がある。
中国には中国の人によって書かれた、韓国には韓国の人によって書かれた、ロシアにはロシアの人によって書かれた、「学校教育における日本語<科>教育」の議論がきっとある。
じゃ、日本語話者である私には、外国人だから、その視点は必要ない? ないことによって、外国人として何か鋭くなる切り口がある? それとも結局のところ、日本の理論を勝手に外国の教育現場にぐちゃぐちゃに当てはめて考えようとしたり、変なことをしてしまうだけ?

など、考えてしまう。それは、きっと自分の今までをいろいろふりかえって感じること。

いずれにしても、相手の学校文化に敬意を払う気持ちは忘れたくない、と思う。

そして、「精緻さ」や「冷静さ」といった視点を、教育学や英語教育の分野で再確認できたこと。
それは、大切にしておきたいとと思う。

諸事情で、もうちょっと勉強は続きます。


この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。