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ことばを学ぶよろこび [いろんなことから考える]

「日本語教育通信」のバックナンバーを見ていて、「表紙エッセイ」に行き着いた。
http://www.jpf.go.jp/j/japanese/survey/tsushin/bn/bn000.html
ああ、いい人たちが書いているなあ。

平田オリザ、ボヤンヒシグ、アーサー・ビナード、米原万里…
言葉に関するエッセイが中心だ。

いくつか読む。すっと入ってくる気がする。
言葉とずっと格闘する人たちが書いたためかな。

一時期何となくモヤモヤしていたことがある。
それは、「言葉を媒介としないものに関心が持てたら、もっと幸せだったのにな」ということ。

自分自身は言葉が好きだったし、違う文化にも関心があった。
その中で実際に外国で働くうちに、言語教育は確かに自分にとってとてもとても大切だけど、一方で言葉を介さないものには敵わないと思う気持ちがいつもあった。
例えばそれは、「音楽」や「ダンス」や「美術」や「工芸」のようなもの。世界の誰もが、同じものを見て感じることができるから。

でも、最近改めて思うこと。
言葉というものと格闘するのは、やはりとても面白い。
格闘する中で、言葉の限界を感じ、他の言葉を学ぶ大変さを感じ、でも<喜び>に触れるということ。
長い間つきあい、そして考える中で、私のベースになっているの考え方なのだなと、やはり思う。
考えてみたらよく読む文学者も、池澤夏樹、須賀敦子、多和田葉子、リービ英雄、ボヤンヒシグなど、言葉と関わり続けた人がとても多い。(宮本輝も大好き)

言葉の限界を感じる一方、言葉を学ぶことで世界がどう開けるかを、ひとつの例として示した文があった。
今の時代でも古びない。いや、今の時代だからこそ、大切なのかも。
私の記憶のためにも、リンクを貼っておきます。

アーサー・ビナード「嘘発見器」
http://www.jpf.go.jp/j/japanese/survey/tsushin/bn/pdf/000/nk54_01.pdf

あの日から2年 [いろんなことから考える]

今日は3月12日、もう13日に入りました。
東日本大震災から2年が過ぎました。

地震の時はハンガリーにいましたが、偶然3月12日から一週間ほど仕事で日本に帰ることが決まっており、混乱の中で飛行機に乗り、ブダペスト・経由地のウィーン・埼玉・関西(滞在中に成田発着がキャンセルになったので関西に移動せざるを得なくなった)・そしてまた経由地のフランクフルト、そしてブダペストと、地震の中を転々とした一週間でした。
新幹線で関西に降りた時、「揺れない」「電気が明るい」と、ほっとすると同時に、「こんなに平和でいいんだろうか」という不思議な感覚を持ったことを覚えています。

その時の日記を久しぶりに読み返し、いろいろなことを思い出しました。

11日の朝、ハンガリーで出勤前に、ふと思い立って埼玉のとある場所に個人的な電話をかけようとしていたこと。
でも、それがどうしても通じず、おかしいな、と思ったこと。
そのままネットを見ると、確か津波警報が出ていたこと。当時は地震のニュースがよく流れていましたが、その時の警報は何だか見たこともないような記述になっていて、「そんな大変なものが」と薄気味悪く感じたこと。

そして職場に行って地震と津波のことを知ったこと。
同僚と映像を見ると、真っ黒い巨大な塊が建物を押し流していく様子が映り、本当にその意味がわからなくて、「あれ、何」と言ったこと。同僚の「波」という答えを聞いても、すぐには信じられなかった気持ち。

日本行きをキャンセルする航空会社もある中で、たまたま予約していた航空会社が飛行機を飛ばしたため、悩んだ末にそれに乗って帰りました。
12日の朝にヨーロッパを出発しましたが、その頃に既に現地の放送は原発一色に切り替わり、メルトダウンの第一報は経由地のウィーンで聞いたのだと記憶します。

11日に地震と津波の報道を聞いてから、13日の夜に日本に着いて横になるまで約48時間、全く眠ることがなかったと思います。


あれから、2年。
細々とネットで募金をしたり、現地のことを考えたりすることぐらいしかできていませんが、その課程で、更新がストップしたままの観光協会のホームページや、行われるはずだった2011年3月のイベント案内を見て、胸が痛くなったことがあります。

あの時、日本に帰ることにしたのが正しい選択だったのかどうか、未だに自分でもよくわかりません。もし今身近な人が同じ状況にいたら、止めているかもしれな。
ただ、短い一週間程度の間に、ヨーロッパと東京と関西と、いろいろなところでいろいろなことを感じ、見て、そしていろいろな人と一緒に泣いたことは忘れないでおこうと思っています。


外国語を読むということ [いろんなことから考える]

さて、最近ずっと考えていたのが、「外国語で読むこと」です。

私は、外国語でモノを読むことが、わりと好きです。(中国語はまだその域まで達していない)

スピードは遅いし、深いことは読めていないかもしれないし、途中で飽きて投げ出してしまうかもしれないけれど、でも外国語で読むことそのものが好きなのです。

そこにあるのは、「情報がとれる面白さ」でもない。情報だけなら、ネットを駆使すれば私が知りたい程度ならたいていのものは手に入る。
そして、「内容が面白いから」とだけ言うのも、少し足りない。えーっと、つまり、内容の問題だけなら、翻訳を探したほうがずっと早いから。
まあ、敢えて言えば、「コツコツやったことが花開いたという達成感」かな。でも、それだけではないなあ。何かなあ。

と思っていた時に偶然出会ったレビューがこれ、nishiisho先生の「外国語文献を読むことについて」でした。

http://researchmap.jp/jokbk12de-1820575/?block_id=1820575&active_action=journal_view_main_detail&post_id=16863&comment_flag=1

廣野由美子先生の『一人称小説とは何か-異界の「私」の物語ー』を引用しつつ、nishiisho先生は「外国語で読むことは、即ち見慣れないものを見ることによって認識に揺さぶりをかけ、それゆえにものの本質に触れさせようとするのではないか」と言っています。
うわ、わくわくする、どきどきする。素敵です、この論。


最近ずっと興味があるのは、「プロセス」そのものということです。

外国語を学ぶこと自体が面白い。外国語に触れること自体が嬉しい。その面白さやわくわく感。目的も実用も吹っ飛んでしまう。いや、その、目的や実用があったとしても悪くないけど、学んでいる瞬間、その時には瞬間そのものに気持ちが高ぶる感がある。
「フロー理論」などはありますが、日本語教育学が精緻な方向に向かっていく中で、抜け落ちそうになっているんじゃないかと感じることも多い、「プロセス自体の喜び・面白さ」という視点。
それをもう少し考えたいと思っていました。

更に言えば、「外国人として本を読むという意味」から、「外国人として文学を研究することの意味」にもつながってくるかもしれません。


廣野先生の本は、思い切って購入してみました。
実は読むのはこれからなのですが、とても楽しみです。

それにしてもこういう刺激的な論が、文学研究から出てきているということ。
自分が院生の時、「文学の人にはかなわないなあ」といつも思っていたのですが、それって何なのでしょうね。
単に関心の幅が似ているということかもしれませんが。





久しぶりとさよならと [いろんなことから考える]

夜、道を歩いていた時、後ろから「juni老師!!」と追いかけてきた女性。OLさんのような雰囲気。誰だろう、見おぼえない。
だけど、私の名前を知っているし、「老師」と言うからにはどこかの大学の先生かなあ。でも、中国語でずっと話しかけてくるし、日本語の先生じゃない感じ。
と思っていたら、どうやら、職場で開いている日本語入門クラスの受講生だった人らしい。
「歩いていたらjuni老師かなと思って、振り向いてみたらそうだからびっくりした。お元気ですか」
と、ニコニコしている。

それから、突然の来訪があった。
巡回研修の時に出会った安徽省の学生さん。
作文コンテストに入賞し、大使館の表彰式に参加するというのでわざわざ北京の職場に立ち寄ってくれた。
初めて会った時は2年生になったばかり。そうとは思えないほどの日本語力と話す内容の力強さにびっくりしたのだけれど、1年経って会ってみたら更に成長していた。
将来は通訳になりたい。上海の大学院に行きたい。と、嬉しそうに話してくれた。

そう言えば、彼を教えている大学の先生にも、この1年半でもう3回も会う機会があった。
巡回研修の時に、それから学科長が集まる会議に(200人規模!)、更に上海の研修会の会場で。
今回のコンテストの記録を見ると、「優秀指導教師」に選ばれていた。

1年4か月前、赴任した時には、
「こんな広い国で、日本語教育関係者も山のようにいて、また会いましょうなんて言ってもそう簡単に再会なんかしないだろうし、本当に意味がある仕事ができるんだろうか」
と、正直気が滅入るような気がしたのを覚えている。
けれども、それでもいろいろな場所に行くうちに、2度3度と会う人がいる。たいてい、教育ということにとても熱心な先生たちだ。

「久しぶり!」だけではない。別れもある。
別の機関に所属されていて、でもずっとお世話になってきた方が、一足早く任期満了で帰国されることになった。
帰国前のご挨拶に来られ、今までのプロジェクトのことを話しているうちに、いろんなことが思い出されてきた。
この間、私は北京に来たばかりだと思っていたけれど、いつの間にかここでたくさんの時間を過ごして、たくさんの人に会って、一緒に過ごして、しばしの間とはいえ、私は残る側に立ってもいるんだね。

街で偶然会って声をかけてくれる人がいて、「また会いましたね」と言える人がいて、中にはわざわざ会いにきてくれる人もいる。そういう関係の人たちが、少しずつ生まれている。
1年4か月前にはなかったそういう関係の人たちがいて、確かに私はここに住んできたんだな、と思う。

北京後半の日々も、ここでのこの関係を大切につないでいきたい。

学校のことを思う [いろんなことから考える]

児童文学に触れる」の中で書いたけれど、『あしながおじさん』や『アンネの日記』と合わせて購入したのが、『一年級的美羊羊(一年生の美羊羊)』という、中国の本。
「我的第一本日記」(私のはじめての日記)というシリーズの中の一冊で、「美羊羊」は中国アニメの中の人気キャラクター、可愛い羊の女の子です。
タイトルから想像できるとおり、これは小学校一年生の女の子が初めて学校に行って、その様子をつけるというもの。イラストが可愛くて、私にも読めそうな雰囲気で、思わず購入。

帰ってから、さっそく読み始める。
初めて学校に行く女の子のドキドキした様子は日本も中国も同じだけど、中には「日本と少し違うな」という記述もあって、それがまた楽しい。

例えば、
「妈妈出差了,爸爸送我去上学(ママは出張なので、パパが学校まで送ってくれました)」
というのは、もちろん日本にもあることだろうけど、パパもママも働くのがごくごく当たり前の中国にいて読むと、ごく自然にすっと入ってくる。

それから、
「到了校门口,爸爸把白雪公主的书包给我背好,然后他就不能往里走了,别人的爸爸也是这样,不准进校门(校門に着くと、パパは白雪姫のカバンを背負わせてくれました。パパは、それから中に入ることはできませんでした。他の子のパパもそうでした。校門から入ってはいけないのです)」
なんていう様子が自然に書かれている様子を見ると、へー、面白いなー、と思ったりする。えーっと、私の中国語は初級レベルなので、違ってたらすみません。
(ちなみに、保護者も参加しての入学式は、別の日に行われるらしい)

私は日本語教育のスタートは、日本では小学校での日本語教室、外国ではドイツの中等教育でした。
学校は、その国の規範や常識がたくさん詰まっている場所。
と同時に、特に年少者に対しては行事や習慣や文化をたくさん体験させてくれるところ。
そこで日本語教育をスタートし、日本語教室以外ではどんなことが行われているかを日々感じ、生徒たちと一緒に学校の文化を経験し、卒業後の彼らに思いをはせていたけれど、環境や立場の変化の中で、私も少しずつ現場から離れたところで日本語教育に関わるようになってきた。

そのことを残念に思うことはあるけれど、俯瞰的な場所でしばらく日本語教育に携わりたいと思って今の状況を選んだわけだから、そういう立場にいることに対しては、ある意味覚悟が要るんだろうなと思っている。

でも、自分が学校という現場を見ていないということを自覚し、見ていない<その場所>に対する好奇心や感性のようなものは、いつも持っていたいとも思っている。

海外の場合、日本語教育が学校教育の中で行われることも多い。つまり、私たちが英語や中国語を学校で学ぶように、彼らは学校の中で日本語を学ぶわけである。

なかなか外からは見えない<学校>という場。
ましてや私たちは外国人。中のことは、わからないことのほうが多い。でも、そこにあるものに関心を持ち、大切に思うこと。
そのことは、現場から離れた今も、大切にしていきたい。

本の中の美羊羊ちゃんは、校門のところに立っているパパをいつまでも立たせておいてはいけないと思って、その後がんばってまっすぐ校舎に向かっていっている。
美羊羊ちゃん達が過ごす<学校>という場所。そこで育てられる、<外国語>という教科。

そのことを考えつつ、この本を読んでいこうと思う。

児童文学に触れる [いろんなことから考える]

さて、この年末年始は中国でも6連休。
6日も連続で休んでいいなんて~~~!!!

といっても年内は大掃除で終わったけど、一日は本屋へ。
ハンガリーでは結局本屋に行く楽しみを本当の意味では得られず(素敵な本屋はたくさんあったのに・・・)、妙にストレスの貯まる日々。
でも、ここ中国は何と言っても漢字圏。タイトルを見ているだけでも、何となくわかって面白い。これぞ、漢字圏育ちの特権とういことで。

語学書、歴史書や小説コーナーをぶらぶらした後、ふと思って児童文学のコーナーへ。
低学年用の本はピンインつき(つまり、読み仮名つき)。子どもの頃好きだった児童文学を見つけると、それだけで面白い。
『青鳥』はメーテルリンクの『青い鳥』だし(最初、チンタオと読みそうになった)、『小王子』は『星の王子さま』。そう言えば原題もLe petit princeだっけ。
で、『長腿叔叔』は『あしながおじさん』とか、そんな感じ。面白い。
『愛的教育』という本があちこちにあって、もしやと思って見たら、案の定クオレ物語でした。クオレって、私も母親の本で読んだけれど「母を訪ねて」などの個別のエピソードは別として、まとまった物語としては、私の子どもの頃には既にだんだん読まれなくなってきていた本のような気がする。ここで再会できるなんて、懐かしい、嬉しい。

外国語で読むって、楽しい。
活字は忍耐強くて、私たちの語学力に頑張って付き合ってくれる。
それに、「教科書の文」と違って、手紙や、メールや、文学作品や、新聞や、雑誌記事や、とにかくそんなモノに触れていると、言葉が生きてるのを感じてわくわくする。
学習者だけでなく、ネイティブも読んでいるんだと思うと、たとえ相手が子どもであっても何となく楽しい。

結局、本が好き、それと外国語が好き、なんだね。

児童文学のコーナーでは、子どもの時好きだった『あしながおじさん』と『アンネの日記』を、今回はピンインつき抄訳版でそれぞれ入手。実はこの2冊、いろんな言語で集めているのです。
それと、『一年級的美羊羊』(一年生の美羊羊)という中国の本を偶然見つけたので、買ってみる。これについては、また改めて。

言葉に関わる喜び [いろんなことから考える]

名古屋の「日本語教育国際研究大会」で久しぶりに会った友人に、「ブログ更新してくださいー」と言われました。そう、そういえば最近していませんでした・・・。

先日職場の専門家ブログの担当になり、仕事を通じてのつらつらはそちらに書くことが増えてきたというのが理由のひとつ。
でもまあ、個人ブログもせっかくなので書き続けたい、ですよね。


そこで、久々の更新。
個人的に最近すごく関心があるのは、「言葉を通じての活動」の楽しさや喜びのようなものだということ。

「言葉や言語学習を通じての喜び」はここ数年追いかけているところなのですが、それを追及する時の危うさを、特に中等教育段階の支援で感じることがあります。

中等教育は、人間の成長にとってとても大切な時期。
なので、「学ぶことを通じての人間形成」や「異文化に開かれる目」を養うことは重要だし、私も大いに賛成するところなのですが、そのことを、「異文化を知る喜びと言語学習の喜びとは違うもの」とするような発言をいく様子を聞くと、すこーし残念だなあ、と思ったりするわけです。

例えば、読む喜び。文字を追うことのわくわく感。
新しい世界に触れていくこと。
聞くこと。言語の持つ音の美しさを感じること。
新しい言葉で話すことで、母語では言えない感情などが恥ずかしがらずに表明されること。
そういった諸々です。

あと、もうひとつ思うのは、「自律学習って何だろう」ということです。
もうちょっと豊かなイメージはないかなあ。「自律学習」じゃなくて、「自律的に言語に関わる」みたいなもの。
結局それがあるからこそ、「生涯学習」・・・というより、「生涯を通じての言葉との関わり」は生まれるんじゃないかなと。

で、並行して「クラスの中の動的な動き」ということが、ものすごく関心があるところです。
大人だって、やっぱり雰囲気のいいクラスに通いたいわけです。けして、初中等教育段階だけではない。
そしてその教室は、教室だからできる豊かさとか、教室ならではの楽しさを感じる場所であってほしい。

(例えばね、以前ドイツ語教室に通っていた時、周囲の忙しいドイツ人にはなかなか聞いてもらえない感情や希望などを、教室で口にすることによる精神の安定作用みたいなものが、ものすごくあったわけです)

私がここ数年興味があるのは、多読、協働、カウンセリング理論。
それから、朗読、演劇、物語ること、短詩型文芸、アートとの結びつき。(個人的趣味もわりとあるよな)

今は少し現場から離れていますが、近いうちに実践もしようと思っています。
いつか、また。

もともとの専門と日本語教育学ということ [いろんなことから考える]

最近でこそ学部から、あるいは20代前半から日本語教育を専攻してきたという若い先生が増えてきましたが、40代以上はやはり、もともとは別の専門(外国語とか言語学とか文学とか教育とか社会学や歴史とか、中には数学とか)を持っていたというのが一般的です。
で、前の専門をそれなりに長くやっていたり、それなりにこだわりを持っていたりすればするほど、日本語教育との方法論の違いとか、妙に平易に見えてしまう実践報告の論文に違和感というか、抵抗を持ってしまうんじゃないかなと思うわけです。

そして、陥りがちなのは、「●●学に比べて実践寄りの日本語教育学論文は、安易に書ける」と思ってしまったり、「安易でいいんだ」と決めてしまうことなのですね。
いや、本当にありますよ、こういうこと。本当に!
あるいは逆に、難易度の高そうなものを日本語教育学で書こうとして、自爆してしまうとか。

確かに、日本語教育学の学際性は指摘されるところ。
にも関わらず関係者が方法論に対して持つ体力のようなものの弱さから、近接分野で相手にされにくい、という指摘を聞くこともあります。
じゃ、現場の実践中心の先生にとって本当に日本語教育学の論文が読みやすいか、と言われると、既にけしてそうではないのですね。
私も歴史から日本語教育に移り、「現場どっぷりでいこう」と思った時期、現場の自分にとって実践研修の論文は既にそれなりに敷居が高く、かつ歴史論文に比べてはるかに読みにくく、「いったいこの人たちは何を拠り所にこれを書こうとしているんだろう」ということに、ずっとずっとずっとずっとひっかかっていました。

見えにくいまま、懲りずに日本語教育学会にも籍を置き続け、改めて勉強したいと思っても、「今日本語教育学をやっても、結局自爆系の成果しか出せないだろうな」という認識はあり、そんな中でずっとやってきていた中、最近ちょっと整理できたことがあります。

日本語教育学。
うん。それはですね、やはり、ただの「教室や語学という実践を借りた●●学」だけであってはいけない、のじゃないか、と思うこと。
「平易な●●学」でも、「実践重視の●●学」だけであってもいけない、と思うことと同様に。
本当に、ごくごく当たり前のようですが、そう思います。

それが分野によって違うかもしれないけど、例えば同じ、「ある社会のある時代のある教育機関の今となっては非常にアレレなカリキュラムやコースデザイン」を見るとしても、歴史だと、そのアレレな部分を時代の中で、あるいは次につながるものとして、プラスにせよマイナスにせよ意義づけていく視点なんですよね。
だけど、日本語教育だったらそうはいかない。「今の時代の今の教育機関のカリキュラムやコースデザイン」を私が分析したり整理したり実践したりしていくならば、それは間違っても今の時代の中でアレレなものを肯定する形になってはいけないんじゃないか、と。
もちろん、結果的にアレレな実践になることはあるだろうし、そこから生まれるものはきっちり次につなげていかなければいけないのですが、「これだって意義があったもん」と、最初から思ってはいけない、と思うのです。それは、もう少し後の時代の仕事になるはず。えーと、歴史から入ってこられた方、どうでしょうか??

それを自分が感じたのは実はつい最近のことです。
その時自分の中ですっと落ちるものがあったし、「あ、今なら日本語教育学を本当に勉強できる」と思えるようにもなりました。10年以上、かかりましたね(結構しぶとい)。

今回いろいろ考えられたのは、中国という、「教育学」や「言語教育学」がこれから地位を高めようとする場所の力、かつ、今の発展の中、新しい理念を吸収し上にのぼっていこうという凄まじいパワーを感じさせる場所の力のおかげです。
ここでは、日本語教育学に取り組もうという、もともとは文法や古典文学を勉強していた先生方に会う機会が多く、既に抜きん出た方もいらっしゃれば、まだまだこれからとい若手も少なくない状態です。
そして、そこにはいろんな葛藤があると思うのです。

平易な●●学じゃない。
実践の場を借りただけの●●学じゃない。
そして、●●学に対してコンプレックスを持つ必要も、ない。

それを納得できる形までつかんでいくのには多分すごく自分がかかる。
でも、本当にやっていきたいと思う人がいるならば、それを一緒に考えていけるぐらいの力を自分がつけるか、あるいはそのための場をつくれるような仕事をしていきたいと思っています。

(ついでに言えば、研究と教育を切り離して、仕方なくやっている授業活動を何とか楽しくやり過ごすために日本語教育を必要としている人も絶対にいて、ここは実はもっと深刻なんじゃないかなあと思ったりします)

<接触>と<切実性>と<個>と<上達+それ以外>と [いろんなことから考える]

ここへ来てから、ずっと自分の中でいじっていることがある。
例えば、<接触>とか。
私はハンガリーを経てここに来たけど、ハンガリーという小さい国のあの学習者たちは、日系企業への就職などという実利的な機会をそんなに持っているわけではないのに、どうしてあんなに日本を身近に感じ、どうして日本と豊かにつながっていたんだろう。
それから、中国の学習者たちは、こんなに日本に近い場所にいて、そして実際に日系企業に就職する学生たちだって多いのに、どうして日本を遠い場所と感じ、日本とのつながりを身近に感じていないのだろう?

それから、言語を使うことの<切実さ>。
語学学習の中での、コミュニケーションや現実場面、真正性といった問題。
それと、「学習者の中から出てくる、何かを表現したい」ということとのつながり。
(母語でもそういう経験をしてきているかどうかも関連あるかもしれない)

もうひとつ、<個>。
豊かな協働を支えるものとしての、確立したものとした<個>。
これは、自分の中でもやや曖昧。どうアプローチしていこう。

あとは、やっぱり何だかんだ言って、誠実に<上達>ということと関わっていくこと。
と同時に、<上達>以外の教育が持っている大切な面を、忘れないということ。
もうひとつ、うまく言えないけど、無意味な上達の強要をせず、「今できない」という事実に大切に関わるということ。
そしてまた、「今できない」ことを認めながらも、その人の能力や可能性を「あなたはこの程度」と断じるのではなく、ちゃんと可能性へつながる道を残しておきたいということ。


いろいろずっと、自分の中で考えます。

数年前からずっと考えていることだけれど、やっぱり場所が変わって新しい人たちに触れたことで、少し視点が変わったことも多い。
動く日本語教師であることが、自分の中にちゃんと積み重なっていけばいいのだけれど。じゃなくて、積み重ねる気持ちでいたいよね、と思ったりします。

話したいという気持ち [いろんなことから考える]

実は、最近海外でも受講できる語学の通信講座やオンライン語学コースなどをいろいろ試しています。
職業柄どうしても語学は必要だし、昨今の状況を考えると日本語教育もオンラインから切り離せなくなっているし、まあ、つまりは自分で実験しているわけですね。
アプリや自律学習のためのサイトも含めて、いろいろいじっています。

で、しばらくやってみたのが「スカイプで英会話」。

そして、思ったこと。

・・・・・・・・・合わないかもしれない、私、これ。特にフリー・トーキング。
・・・ということ。

だって初対面の先生に、レッスンだってわかっていても、いきなり「趣味は何」とか「家族は」とか、そんなこと話すの強制されたくない。話したいという気分になれない。
考えてもみてくださいよー。私、ここに来て二カ月ですが、「趣味は何」なんて会話ひとつもしたことないですよ。(ん、誰にも関心を持たれていないとか?)
「昨日何をしたか」なんてのもない。強いて言えば、月曜日に「昨日、よく休んだ?」と聞かれたことがあるぐらい。

まあ、私がちょっとひねくれた話者ということもあるんでしょうね。母語でもあまりそういう話題でずけっとやられることが好きじゃない。
つまり、自己開示度が低い人間なんです。週末も一人でぼーっとしていたりするし。

その時思ったことがあったんですね。あ、これは、OPIで指導を受けた問題につながるな、と。

OPIについては好き嫌いもあるでしょうが、私は「どう話を引き出すか」「力を出し切って話せたという満足感をきちんと持ってもらえるか」という部分が、とてもいいなと思っています。
そのために、いきなり「趣味は何ですか」というような質問をしてはいけないという指導を個別に受け、「そうかなあ、でも趣味って早い段階で習う表現だし、クラスでもみな楽しそうに練習してるよなあ」と、ちょっと腑に落ちなかったのも事実です。
でも、今回自分が学習者の側に立って実感。なるほど、あれはアチーブメントの活動としては楽しいけれど、プロフィシエンシーを問う場合は確かに要注意かもしれない。

そんな御託を並べるヒマがあったらしゃべれよー、juni_sachikaよ。と、思われるかもしれない。はい、全くそのとおりです。グダグダ言ってないで、まず話さないとうまくなんないよー。ええ、そりゃそのとおりです。

でも、私は教育関係者なので、どうしても教師側に立ってみて、教師の責任についても考えたい。
実際、OPIを経験したけど、「話したい気分になれなかった」という中国人やハンガリー人に会ったことがある。
一方で、インタビューを終了しようとしたら、「もっともっと話したい」と食いつかれたこともある。その違いはいったい何なのか。どうしてそういうことになったのか。

特にインタビューや面接だと、日常よく接触する会話場面と違って、彼らは「話さなければならない」。つまり、聞き役や傍観者でいることはできない。そもそも不自然な状態。その中で、どこまで「達成感」や「満足感」を持ってもらえるか。

自分自身、英語のレッスンをオンラインで何回か受けてみて、どんどん英語での会話にのめりこんだことがないわけではない。
それは、フィリピンのダバオの先生。
あー、フィリピン、ダバオ。私にとって初めてのアジアの街。
ぽっかり青い空、緑の濃さ、蘭の花、雨に打たれて駆け込んだ軒先、ココナッツの入った料理が美味しかった、それからマグサイサイ公園、日本語教室の修了パーティー、とても暑いのに夜は気持ちよく涼しくなること。

そんな話をワクワクしながらして、先生とも盛り上がって、それからちょっとだけニュースなどの話もして、とても気持ちよく終わることができた。なるほど、あの感覚。話すために話すのではなく、話したいから話したい、という気持ち。

もちろん、いつも教師と学習者が共通の話題があるわけではない。
その中で、どう「話したいと思ってもらえるか」、そこはやはり追求していきたい。

学生時代、必修のドイツ語会話のクラスがあまり好きではなかっただけに(しつこい)、そう思ったりしています。

でも、懲りずに英会話もうちょっとやってみようかと思っている。
教授法と並んで、<学習法>がやはり興味のあるテーマだからです。


★オンライン英会話には後日談があって、それについてはこちらをどうぞ。→こちら (2013.04.14)

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